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明智光秀 五百年の孤独: なぜ謎の武将は謀反人と呼ばれたのか
07/03/2020 11:35:11, 本, 宮崎 正弘
によって 宮崎 正弘
3.5 5つ星のうち 15 人の読者
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内容紹介 生誕から約500年。主殺しの謀反人としての汚名を着せられ続ける武将・明智光秀。謎に包まれた出生、ミステリアスな決起と最期。「ときはいま雨が下しる五月かな」も誤解と曲解に満ちている。本能寺の変の直前に愛宕山で光秀が催した連歌会で詠まれた句だが、続いて詠まれた句を全体として解釈すれば、光秀の真意は明快に読めるのだ。豊富な史料と綿密な取材で綴る歴史再考の書。これまでの「光秀本」を吹き飛ばし、孤独な英傑の実像に迫る。 内容(「BOOK」データベースより) 約五百年にわたり“主殺し”としてのイメージが定着した知将。「野望」「怨念」でなく政治家としての慧眼を持ち合わせた男は、主君・織田信長の狂気に終止符を打つべく、本能寺へと走る。豊富な文献と綿密な取材で迫る、“本当の明智光秀の姿”とは? 著者について 1946年、石川県金沢生まれ。早大英文科中退。「日本学生新聞」編集長などを経て論壇へ。歴史評論に『吉田松陰が復活する!』(並木書房)、『西鄕隆盛――日本人はなぜこの英雄が好きなのか』(海竜社)、『激動の日本近現代史』(渡辺惣樹氏との共著、ビジネス社)など。文藝評論に『三島由紀夫の現場』など三部作。作家としては『拉致』(徳間文庫)ほか。一方でチャイナ・ウォッチャーの第一人者として知られ、『中国発の金融恐慌に備えよ!』(田村秀男氏との共著、徳間書店)。国際政治、経済予測に関する著作も多い。 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) 宮崎/正弘 1946年、石川県金沢生まれ。早大英文科中退。「日本学生新聞」編集長などを経て論壇へ(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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明智光秀の謎に挑んでかれこれ10年経過したと筆者が文中で述べていますが、登山や山城踏破をしつつ史跡巡り・現場取材を重ね、戦国時代の日本と大航海時代の世界を併せて鳥瞰し、歴史の正統という価値観と異端のそれとを考察した力作です。退位を迫るなど度々天皇への不敬をはたらき、切支丹伴天連らによる伝統文化の破壊を放置続ける織田信長に対し、国体護持・文化防衛という義挙から発した軍事クーデターが本能寺の変であるとの結論を導きだす論理展開が見事です。まずは、時代の指導者として信長と光秀を比較考察し、第一次資料などから信長は、合理主義の権化ながら学問・教養の片鱗も見当たらず、感情の起伏が激しく人徳に欠けると判定する一方、光秀は、砲術、築城、軍学、および古典、和歌の教養など文武両面で優れると評価。とりわけ、「ときはいま、天(天皇が治める国)が下しる五月かな」から始まり99句中15句が光秀の作の「愛宕百韻」は、万葉集、古事記、源氏物語、平家物語、太平記、神皇正統記、愚管抄などを読破したであろう光秀の底知れぬ教養、学識、和歌の素養があることを解析してくれます。同時に、光秀らの連句が、打倒「平家」旗揚げの寓意を盛った、その実は打倒「信長」、尊王保守主義の復権をめざす光秀の意志を見抜くところが、白眉でしょうか。もう一つの信長と光秀の比較考察の重要な視点は、二人を祀る神社の有無です。仏教徒に散々忌避されたゆえか信長を祭る神社は、江戸時代には存在が認められていません。他方、光秀がご神体となる御霊神社は本能寺の変の90年後に創建されたとのこと。すなわち、没後、光秀は人々から神として尊崇の念をもって敬愛されている証拠です。著者は「明治維新は薩長史観で塗り替えられ、徳川幕府の功績は消され、秀吉が過大に語られ、それは織田信長の過剰評価へと繋がった。」と述べています。たしかに江戸時代の頼山陽の歌や芭蕉の句等から光秀は正統に評価されていたことがわかります。明治維新から150年が過ぎ、そろそろ信長・光秀・秀吉の功績や人物像の見直しについて闊達な議論が求められますが、現代日本人の合理主義偏重、学識の劣化、知性の頽廃状況では、正鵠なる歴史の評価にはまだまだ時間がかかりそうです。御代替わりで国民の関心が皇室に注がれ、光秀が主人公のNHK大河ドラマを来年(令和2年)に迎える昨今、幅広く多くの人に読まれることを祈念します。
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